8月若獅子の会(鈴木大拙に学ぶ人間学)

8月若獅子の会(鈴木大拙に学ぶ人間学)

久々に参加の若獅子の会

鈴木大拙がテーマという事で、父親から教えられたのはハイデッガーとお友達の人

横田館長からは、円覚寺の隣に住んでた方であり、禅を日本中、世界中に広めた方
 

 

そして、鈴木大拙が晩年、大谷大学で京都に行き、いわゆる京都学派の西田幾多郎との親交など

多分、あまり一般受けしない、名前が殆どなんだと思いますが、、、

かじった程度レベルですが、鈴木大拙は禅よりも日本的霊性の方が興味深い所があり

日本的霊性は大地に由来し、鎌倉時代に仏教や禅を通じて開化する。それは法然、親鸞により体現される。 人間の持つ霊性を覚醒させる手段、道を提示するのが宗教

特に鎌倉時代に着目していて、法然・親鸞の阿弥陀信仰を重視して創造主である神も、救世主である仏も、この世に生を受けた自分も、すべてが一つ(阿弥陀仏)であるという自覚を妙好人が持っている

法然・親鸞の阿弥陀信仰を重視し、
これに徹底した妙好人

ちなみに、お釈迦様が私の師として紹介しているのが阿弥陀仏
で、その阿弥陀仏は、親鸞聖人曰く

 

 

「無明の闇がすべての苦しみの根元である」

辛い、苦しいと思う心があるから、物質面で豊かになっても最終的なしあわせにたどり着かない その無明の闇を破るのが阿弥陀仏の力で 阿弥陀仏の力を言う、親鸞は他力本願の考え (他人任せではなく、阿弥陀仏の力が他力本願)

 

その他力本願がいいか悪いかは分からないのですが
親鸞の場合は、両親を早くに亡くされて
死について考えていた。考え考え
たどり着いたのが他力本願であり

どんなに自分の心が強い人であっても、おそらく死については
分からないし、自力で克服出来るものではないという事

そして、親交のあったハイデッガーは、

死から自由になるために、自分の死を理解することを、死に先駆ける「先駆的了解(せんくてきりょうかい)」と表現し、そこに至ることで、死から逃亡せずに自分に今何ができるかに向かうことができると
「死」を自覚した時に自分の将来全体を見定めやすくなり、可能性を求める本来のあり方に戻ることができる
 

ナチスに在籍したりで相当否定的にみられる方だと思うのですが、、
「存在と時間」において

・人間は現存在=現在を生きているが世界の様々な存在と関わっている
これを世界 内 存在という言い方で

・死への存在
死と向き合う事で真の自己に目覚める

例えると
一般的には人生には可能性があるから、頑張って先を見て生きていこう、悪い時もあるけどいいときもあるから前を見よう

に対して
ハイデッガーの場合は、常に人間1秒1秒死に向かっている。。
だけど、日常はそれを忘れている(存在忘却の時代)

経済やモノなどはそんな死に向き合うべきところの真理を忘れさせている(故郷の喪失)
となると、個性のない没個性の平均的な人間になってしまう(ダス・マン)

自己について有限であり、個性を見出すには死と向き合う事が大事
死について目を背けているうちは自己の存在に気づけない

同じく、実存系でサルトルはアンガジュマンと言ってて
ニーチェは超人という言い方で表しています。

つまりのところ、自分で決断して自由を勝ち取れ!を言いたいと思うのですが

ショペンハウワーも
すべてに意思がある
意思は無限にあるもので、完成や終着点はない
完成がないということは世界は永遠に不完全
そのような不完全な世界は
人間にとっては「苦」である

その苦からの解放に同情(同苦)

 

 

自分の苦悩だけでなく、他者の中に自分と同じ苦悩を見出し、他者を理解しようとする それによって愛が生まれる

 

以前釈先生から教えて頂いたのも
いじめ、自殺問題、これからの時代と価値観など

改めて思う事の1つに昨年から、今の状況を救う事が出来るのは、仏教しかないのではないかと感じている。
様々な宗教を経験する中、お釈迦様が唱えた仏教を教えていかないと本当に人を救う事は出来ないのではないかと
いう思いを強く持つ様になった。その根拠の1つに、人間の持つ悪の部分も仏教はしっかり説明している。
良いところだけを見るだけではなく、生々しい悩みの部分も含めて人を救う事が本質的に出来るのが仏教ではないか。
釈尊曰くの四諦と八正道(はっしょうどう)の部分に該当する箇所

四諦
「苦」そのものを直視し、心の表面でごまかすことなく一時の喜びや、楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」がつきまとうという事を断ぜられた真意

しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その原因を見つめる態度が大事であるという事です。このような時「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものでもないし、今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけること!
一. 苦諦:人生は「苦」であるという真理
二. 集諦:苦の原因は「割愛」にあるという真理
三. 滅諦:その苦を滅した境地が「悟り」であるという真理
四. 道諦:その悟りに到達する方法は「八正道」の実践であるという真理
お釈迦様は、まず人生は苦であり(苦諦)、その苦の原因は「割愛」であるとし(集諦)、この割愛を滅し、あるいはコントロールすれば、苦に悩まされない境地(涅槃)を得ることができるとし(滅諦)、さらに、この苦を滅する修行方法は、八正道の実践である(道諦)

 

八正道(はっしょうどう)
正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定

「正しい」とは「真理に合った」・「調和のとれた」考えや見方、行動をさし、小我「自分本意」にとらわれて、自分自身を過大評価し、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない大きな立場で物事を判断できる人間となる事を示す道として解き明かしたもの</blockquote>

現在に話を引き戻すと、生きる基準が示しづらくなっている現代において、誰かから与えられるものではなく自分で考え探し決める
そんな時代に突入してきている中で、しっかり自分軸を持てる人はいいものの、迷う人もたくさん増えてくる時代に突入。

そんな答えの無い時代だからこそ、周りに流されずに自分視点での幸せ、生き方、あり方は指し示してもらうものではなく、学んで体験して選択(決める)する事も時代の変化と共についてくる事なのかなと思います。

この辺りは、胎内記憶を学んでいても多くの共通するところがあり

意思があるというのはショペンハウワーも同じことを言ってて
 

しあわせは与えられるものではなく、むしろ現実を見ると苦しみ、悲しみ、苦難困難がありふれているのが現実

そこに対しての不平不満よりも、どう向き合うかの考え方や解釈が大切

 

 

更に言うと、そこで疑問を感じる事も多くあり 心の勉強や自分を変えるプログラムなどに参加した方から聞くのが

・成果の出す人はこんなことをしている!みたいなまねるパターンや

・魅力を持つために、〇〇の資格など ある意味、自分を変えて強い人間になる、魅力のある人間になる

という事だとは思うのですが、 実際に変革して、環境も含めて変わった方というのは正直僅かだなと感じる事も多く

 

強い人が強い人同士でグループを作ることはあっても 弱い人も含めて助けて行こうというのは正直少ないなと。

 

つまり、弱い立場にいる方が「助けて」「力を貸して」「学びたいけどお金がない」というのが言いづらくて、強い立場の人間になると 弱い人を努力してない、本気で学んでいない そんな弱さをさらけ出しづらい場になっている様な気がしております。

 

きっと胎内記憶でも、最初から人脈がある、人気がある、お客さんを抱えている方はいいのですが

愛を実践すべきは、そういう力を持っていなくても、頑張って学ぼうという方や 伝えたい!と思ってもツールや人脈を今持っていない という方に対してのアプローチがどこまでできるかが これからの広まる!に重要だなと思うところで、強い人が広げるのは知るべき人が知る範囲なんだろうと思っていて

池川先生と話する時も本当に広まるのは男性 というのを仰られていて

大体、知るべき人が知るところが一巡した段階だからこそ、見知らぬ方が気づくべきステージに来ているのではないかと

思うところで、自分自身はツールを駆使していきたいと思う限りであります。

 

若獅子の会でも、素敵だなと思うのは きっかけは何でもよくて、興味を少し持てば全然参加OKで 受け入れてくれる場があり、人がいて お金も殆どかからないし、入会制限は年齢はありますが、それ以外は多分殆ど何もなくて 縛りとかもないので そういうところが素敵だなぁと。 学びたい方にはマニアックに学べる方々もいたりで 森信三先生、安岡正篤先生、中村天風先生、坂村真民先生、中條高徳先生などなど

今思うと、20代のうちに知る事が出来て、共に学ぶ仲間がいるというのは 後々になってすごい財産になるんだと思います。


Source: PR最新情報

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